「なぜ」と「どうして」の違い ~神話から科学へ~

障害を持って生まれた人、大切な家族が障害を負って生まれた人。「なぜ」そうなのかと、悩む人もいると思います。罰があたったか、前世の報いか。平安時代にも脳性麻痺の人はいたはずです。中世の人などは、そういう神話的な理由をイメージしたかもしれません。

「なぜ」と「どうして」の違い ~神話から科学へ~

現代でもそうかもしれません。特に事故などによる中途の身体障害、一定の年齢になってから発症した筋ジストロフィーの人など、生まれつき障害の人よりも、途中で健常から障害に変わってしまった人の方が、「なぜ」という運命への問いかけが強いのかもしれません。「なぜ私が」「なぜ息子が」。答えのない自問自答に苦しむ。よく理解できます。「なぜ」という神話的な問いをすることを否定はしません。

 

多くの人はそこから一歩進んで「どうして」障害になるのだろう、という領域に思いが進み、知識を得ようとします。脳性麻痺を引き冒す脳の障害とはなんなのか、その結果おこる身体障害のメカニズムは。脊椎の損傷で半身不随になるとはどういうことなのか。これらは科学です。それもほとんどの場合、最先端の科学の領域です。学問的にも難しい領域です。

 

人間の身体や心について「どうして」という知的興味をもち、先端科学の領域を学べば学ぶほど、まだまだ解っていないこと、解明されていないことが膨大にあることが解ります。実際ほとんどの障害は、治す薬がないのが現状です。

「なぜ」と「どうして」の違い ~神話から科学へ~

特に脳の領域は解っていません。「どうして」を突き詰めるほど、脳の不思議に突き当たります。ただし、少しずつ一歩ずつ、脳に関わる解明の糸口は出来つつあります。1%しか解っていなかったことが2%解るようになれば、「どうして」の解明量は2倍になります。「どうして」が解るようになる、科学の未来を想像しましょう。

 

少数ではありますが「なぜ」という神話の世界だけにとどまって、「どうして」という科学の世界に進まない人がいるのを知っています。極端な例では偶像を崇拝したり、ただの水を信じて飲んだり。何かにすがることを否定はしません。それによって救われるのも人間です。どうせ俺は、と自暴自棄な生活になる。こんな子は俺の子じゃないと家庭を捨てる。こういう時間も場合によっては必要でしょう。

 

経験上のことですが、「どうして」は面白い世界です。自分にとって切迫した問題である障害についての探求です。他のテーマなら読むと寝てしまいそうな専門書でも読めます。普段は人の話を聞くのが嫌いな人でも、知りたいと心から思っていることについての話ならしっかり聞けます。真剣に考えるせいでしょうか。他のことを考えるときよりも、頭がよくなっている気がします。もっとも「気がする」だけでしょうが。

 

火事場の馬鹿力ではありませんが、自分にとって深刻で切迫したテーマであるほど、貪欲に知識を吸収できます。解っていないことが多い領域の最先端科学について、「なぜ」という悩みが深い人ほど、「どうして」を知りたいという意思を持って力強く学んでいます。